「育てる」なんかおこがましい
人を育成する時、「育てる」という表現をよく使うだろう。
僕も「育てる」というワードをよく使う。
でも、よくよく考えると「育てる」という言葉の裏側には「自分は出来ていて、相手は出来ていない」という前提がある気がする。
(仕事や子育てなど、当然に自分は出来ていて相手は出来ていないことがほとんどなのだが)
表現方法として「育てる」という言葉を使うのはいいのだが、「自分の力で育ててやろう」というのはどこかおこがましいと思えてくる。
例えば、僕が育てた社員がいたとして…
本当に僕の力で育てたのであれば、僕以上にはなれないはずだ。
さらに、本当に僕が育てたのであれば、どんな社員でも同じように育つはずだ。
でも実際は違う。
僕が教えた以上の力を発揮する社員もいる。
僕が教えたことに対して、しがみついて育つ社員もいれば、全く成長しない社員もいるし、途中で逃げるように辞めていく社員もいる。
そう考えると、僕が育てている訳ではない。
「育てる」ではなく「勝手に育つ」という方が正しい。
会社として育つ仕組みを考えて提供するのは僕であるが、その仕組みで社員ごとに勝手に育ってくるのだ。
だから僕が育てた訳ではなく、僕が考えた仕組みの中で、その社員自身の力で育ったのだ。
社員育成も子育ても学校教育も同じことが言えるのではないか。
それぞれが体験したことを通して様々なことを感じとり、それぞれの力で育っているのだ。
育てる側にできるのは、その体験を提供したり、迷ったり悩んだ時にヒントを与えたり、一緒に考えることで「勝手に育つサポートをする」ということだ。
本人の熱量以上のことはできないし、マインドコントロールして言うことを聞かせるのは洗脳であって育成ではない。
「人を育てる」なんかおこがましい。
「人は勝手に育つ」のだろう。
そう思えば、部下や子供に対する正しい接し方も見えてくる。